昭和46年12月29日 朝の御理解
御理解第71節「ここへは信心のけいこをしにくるのである、よくけいこをして帰れ、夜夜中どういうことがないとも限らん、おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」と。
え~、信心の稽古をさせてもらう、え~、どういうような、あ~、ことを、焦点に、稽古をするかと、えぇ、信心が、色々、おぉ詳しくなると、いうことではつまらん、それが、え~、ん~、おかげ、おかげの頂けれる、うぅ、信心、そういうおかげに繋がる信心、そういう信心の稽古をさしてもらわなければならん。
え~、困った事がある、だから、その事をおかげを頂く、おかげを頂きたいと、いうことのために、ならお参りをしたり、ここへ信心の稽古をしにくる、ですからおかげを頂きたいということ、その事を通してです、信心の稽古をしなければいけない、ただその事が、いわゆる御祈念成就、祈願成就と、いうことだけの願い、例えて言うなら、商売繁盛なら商売繁盛を願う、病気全快なら病気全快を願う、ね、だからその、おぉ、願う、願うことのためにだけ例えば、あぁお参りをするとするなら、おかげを、まあ良し頂いても、なら信心の稽古にはならないと、その事を通して稽古をしなければいけない、だからお参り、おかげと直結するのではなくて、その事を通して稽古さる、ここには信心の稽古に来る、本当言うたらだいたいは、最後に仰っておられますようにね、「まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ」と仰る、ね、それは願いことのないということはありません、そりゃぁもう、も~う本当に、え~、まあ信心を段々進めて参りますと、ん~、気になる事はいっぱいです、しかも段々、ね例えて言うなら、まあ私のギリギリの今の信心のところを、を申しますならね、本当に最近思うことは、あの世界の隅々にいたるまで、で、おぉ和賀心時代の運動が展開して来る、そういう、う~事を分かってもらいたい、そしておかげを頂いてもらいたい、難儀から、あ~、開放されるおかげを頂く、いわゆる世界総氏子の身の上安全ですけれども、まあ言葉で言やそれだけですけれども、まあそういうような、祈りを切に持たせてもらう、世界中の氏子の精霊ですね、霊様、精霊達の、言うなら立ち行き、もうこれも最近は切に願わなければおられない、いぃ私の信心の焦点である、ね、ですからね、これはもう自分の事には何にも願うことはいらん、なら私が体が悪いわけではない、例えば日々、え~、まあ二升ぐらいお水を頂くでしょうがね、すいっ、みず、水分を取るでしょ、というのですから普通じゃない確かに、けれどもそのことを、を、まあ、え~願おうとも思わんし、願いとして、えっ、その、願いの言葉になって出てこない、これは事実である、ね、合楽教会の、言うなら大繁盛といった、なら直接そういう、ただ人が助かるということだけは祈るけれども、なら合楽教会だけが繁盛すれば良いという風な祈りも持たない、ね、ですからその稽古の焦点、というものがです、言わばあぁ、その事を、通して、え~、おかげを頂かなきゃならんから、そのおかげを通して、信心の稽古をさせて頂かなければならん、なら願いは、だから尽きることがないと思うです、信心が進んで行けば行くほど、それもつい最近のこと、もう私の場合でも、ね、信心の稽古を段々させて頂いておったら、例えば祈りの内容までが変わってまいりました。
信心の稽古に通うてくる、そこでならこれ皆さんの場合、それぞれに願いを持たない方はない、これは私も只今申しますようにあるように、例えば、あ~、ん~、今度の御造営委員長であるところの久富さんなんかは、もう本当に、その御造営ということのおかげを受けなければならないということのために、まあ言うならば朝参りに熱が入っとると言うても良かろうと思う、そのためなら、自分の、おぉ例えば、あ~お仕事の方は、ね、少々お留守になろうが、どういうけっ、事になろうが、この事を成就すっ、のまでは、あ~、いわゆる御造営ということに焦点を置いて、信心の稽古をしておると自分でも、まあ言っておりますが、いや信心をしておると言っておりますけれども、それをやはり稽古になっ、願っただけじゃつまらん、その事を通して、稽古が出けて行きよらなければダメなんだ、ね、なら皆さんだって、やはり御造営御造営ということが言われるようになり、まあ実際にもう具体的な、あ~、働きがね、いわゆる(?)式も終わり、駐車場の隅の方に、い~、あそこ事務っ、業者の方のまあ事務所かなんかになる所でしょうか、この頃から建ちました、というようにまぁそうして、え~、御造営の、お~、がもうすでに始まっておるという、のですから、その事は合楽に縁のある人達は、まず祈りの、お~、ん~、焦点がそこに置いておられるかどうかは分からんけっ、にしても、やはり皆さんの祈りになっておるだろうとこう思います、あぁ御造営が始まった、いくらか御造営費をお供えすりゃそれですんだというものではなくて、やはりそのことを、切実に祈れれる、信心、そこで自分の信心の程度を一つ分からなければいけない、はたしてどのくらいな、あ~、熱意と迫力を持って、そのことを自分が祈っておるかということは、皆さんの信心の稽古が、どのくらい育っておるかということにも繋がること、ね、まあならそのずっと手前から、あえ、まいりましても、え~、例えて言うなら、宮崎泉くんから、二・三日前から朝参りをして来ている、こりゃもう今度高校受験、ね、ですからお父さんお母さんも、おぉまあそのためというわけではないでしょうけれども、朝参りをする、だから僕も連れて参ってくれと、まあまあ毎日この頃、えぇ学校の時間(?)、さあ起きらんのっち言うたっちゃなかなか起きっちゃこん、え~、その子供がもう、この頃はもうピシャッてももう、目が、その、一言言うたら起きてきますと言うて昨日お母さんが発表しておられました、昨日竹葉会でしたから、ね、いわゆるその~、やはり、えぇ、受験のおかげを、受験、そしてそれがおかげにならなきゃならんというので、まあ発心してお参りをしておる、ね、だから今はもう、お参りのきっかけとか、またお参りをしておることも、まあその事のためにお参りをしておるという、のがいけないのじゃない、そこからです、その事を通して、信心の稽古に、通ってくるとおっしゃるのだから、稽古をしていかなければいけない。
子供のために夫婦で朝参りを始めた、本当にその日その日の御理解に本気で取り組まして頂こうと、まあ夫婦で話し合った、「ところが先生もう、最近、朝参りをさせて頂くようになってです、取り組まねばならないことの多いのに驚く」とこう、今まで言わば信心をしよったけれども、言うなら、あぁただお参りをしておったのであるけれども、いわゆる今日のみ教えを頂いて、今日のみ教えを行の上に現して、おかげを頂こうということになったら、もうとおり、取り組まねばならないことが多いのに驚く、もうすでに、えぇ稽古にかかってきたわけですね、稽古の材料は沢山あるということなんです、ね、そのことを、まあ具体的な、あぁ発表を、昨日宮崎さんしておられました、ね、そして取り組むその事が、段々有り難くなってきた、こりゃお参りをするなら、信心の稽古をする、材料が、あまり沢山あるから、あ~忙しなったといったようなもんではなくてですね、その事に楽しみが出けてくるようになり、それが段々信心の稽古がです、いわゆるまめな時ここへ参って信心の稽古をしておけという純粋なもの、あれこれと別に願うこともない、けれども、その願うことがないじゃないけれども、願いというものが段々高度なものになってくる、大きなものになってくる、ね、そこに信心の稽古は、いよいよきりがない限りがないということになってまいります。
ただ参ってお願いをしておる、なるほどおかげにすぐ繋がってもです、それは信心の稽古にはならない、ね、その事を通して、信心の稽古をさせて頂かなければならん、ね、でないと、一事二事成就したら、もう信心の稽古は、を、おこたわるような結果にしかならんのです、でそこで、まあ思うんですけれどもね、第一その、信心の稽古の根本的なところとでも申しましょうか、それを71節のもし、えぇ71節の後先に見るならばです、70節「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ」とこうおっしゃる、私は思うのに、金光様の信心以外の信心は、まず道理に合わないと思うですね、おかしい、人間が、はぁもう大変な、あぁ、高度な教学を持った、あ~、宗教もあります、かと言うて、お参りしてからお守りさんをもろうてきて、ね、それを身に付けたり車に付けたり、するだけを信仰だとして大宣伝しておるような、宗教もあります、災難よけの神、言うなら商売繁盛の神、ね、ところがもう、私共が信心を段々分かってくるともう、おかしゅうしておかしゅうして応えんとですよね、そういう仏様を拝むとか、その(?)、例えば信じるとかといったような信心は、どんなに考えても万物の霊長として、道理に合わないのです、ね、それをまあ私がなら他の宗教のこと詳しいということはない、分からんけれどもです、ね、私が知った限り、を限りで言うとです、ね、金光教の信心をおいて、道理に合う信心、ほど道理に合うた信心はないということです、ね、そういう例えば道理に合うた、信心をさせて頂いておるというです、またさせて頂かなければなら、道理に合う信心をさせてもらわねばならん、いわゆる自分の信心の内容の中に、そういうものが少~しでもあるとするならです、それはもう混ざり気な、金光様の信心の素晴らしいものに混ざり気が入ってくるです、純粋なものになってこないです、ね、ところがね、そういう信心が、あんばいお道の信心さして頂いておる者の中にも沢山あるということです。
先日聞かせて頂いたんですけれども、ある教会のやっぱ総代さんが、それでその、え~、お参りは毎日、教会にお参りをしておる、けれども教会じゃ、色々な事が分からんっち、分からんということは、まあお尋ね事が出来ん、ね、ですからお尋ね事だけには、近所の○○さんにお参りをするっちいう、もうどんなに考えたって、もうおかしいですけれども、そういう人が多いのは(?)くらいです、いかに金光様の御信心を、純粋なところまで、言わば頂いていないかということ、稽古不足です、ね、ね、私共が一つここの辺のところをね、(?)、でないとしっかりして育たんです、私はあの、合楽の御信者さんの中でですね、はぁこの生き方で行くならば、いよいよ大きな信心に育って行くだろう、いよいよ大きくおかげを受けておかれるという方は、何人かないです、ですから皆さんみ~んな自分の胸に手をおいて考えてみなきゃおかしいです、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心という、そこだけでも、皆さんの信心の、が、本当なおかげの受けられないという、ことの内容になってきておるですね、ね、それが稽古をさせて頂かんとね、分からない。
次に、次の70、72節、「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」とこう、私共の周囲にです、ね、だって金光様の御信心をさして頂くならばです、いよいよ人を軽う見るというようなことは出来なくなってくるんです、ね、だからそういうなことがすっきりとです、信心の稽古に土台に出けてから、私はここへは信心の稽古にくるという、う~、ものがなからなければならなん、人を軽う見なということは、物事を軽う見なということにもなるでしょう、物を軽う見なということにもなるでしょう、物事、物、人、一切そうです、ね、神様の御働きとして、頂けば、事柄も御事柄と言わなければならないし、神様のお恵みの物と思うたら、いわゆる御恵みの物として、頂かなければなりません、ましては人間は、ね、神の氏子と、仰せられる、神の氏子としての、言わば、頂き方と、ね、そういう金光教的な、いわゆるものの見方考え方というのがまず身についてくる、これはその~、他の宗教ではあんまり言わんのですよ、もうまるっきり、い~、この宗教をしなかったら、他のもんなもう敵のような見方をする稽古すらあるくらいですからね、他、この宗教しなかったら、他のものは抹殺してしまうといったような、まあ言うなら恐ろしい神様、その思想の信心もあるんですよ、だからいわゆる宗教戦争なんかっていったようなことになってくるんですよ、ね、だから金光教的根本的な、その、お~、ものの見方感じ方、というものはです、「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」とこう仰る、おかげはないと断言して教えておられるところをです、世の事柄、勿論人も、であり、あります、ね、そういうものがすっきりと出けた上に、立脚しての信心、同時に人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心、ね、だからそっ、え~だいたい言うとその、71節とか72節をこう例にとって申しましたが、そこんところが分かるまででも、十分やはり稽古がいりますね、それがすっきりするところまで、ね、そこんところが、私はもう本当に、もうスキッとしすぎるくらいにスキッと(?)とかないかんとこですここんところは、ね、そうして信心の稽古をさしてもらうとね、信心、信心の稽古が、もう実にいわゆるあかぬけした有り難いものになってくるです、混ざり気のない、いわゆるいよいよ金光教的な、ね、だから金光教的じゃないというのは、あぁ、だから真の信心の内に入らんとさえ私は今日は思いますね、いわゆる、もう金光教だけだという気がしますね、教えを頂いて行けば頂くほど、ね、道理に合う信心とか、ね、71節72節から頂いても、ですから金光教の信心さして頂きよってもです、そこの71節、70節と72節のところをスキッと出けていない、思い込みが出けていないとするとです、本当の金光教の信心を純粋に頂くことは出けんのです、ね、その純粋なものを持って、信心の稽古をする、私はあの、(自分で?)、昨日竹葉会の時にお話ししたことでしたけれど、結局私が言う事はいつも同じだということなんです、そりゃそうでしょうね、例えば三味線なら三味線の稽古をするとに、(?)なんか握らん、やっぱり何時も三味線ばっかりじゃ、だからそれで良いのです、ね、三味線の稽古をしよって、いわゆるバイオリン握るっちいうこともない、やっぱし三味線の稽古をするなら、三味線一筋にいかにゃいかん、だから握るのは何時も三味線ばかり、ただそれが、なら曲目を多く覚えるというだけではなくてです、ね、同じ、一つの、おぉ、ことを一つのものを稽古しても、それが段々、言うなら音色が良うなっていくというような、おかげを頂いて行くことだけなんだ、金光様の御信心もそうです、もう親先生が言いなさることは決まっとる、確かに決まってる、ね、それがです、段々上達して行く稽古をするのが信心の稽古なんですから、ね、それがです、ね、なら例えば、私がもうとにかく信心とは偉うなるためでも賢うなるためでもないと、有り難くなる稽古だと金光様の御信心は、ね、だからその本当に、嫌が好いにも有り難うならせて頂くことのために、成り行きを大事にせよとこう言う、全てを御の字を付けて御事柄として御物として、ね、または、対人間の場合は神の氏子としての、頂き方をしていかなければいけないぞと、ね、そういう生き方にならせられる時にです、ね、例えばなら御もっ、御事柄として、受けて受けて受け抜かせて頂くという例えばようなことを、私はあらゆる角度から説く、それは結局どういうことかと言うと、有り難くならして頂くことのためなのです、ね、なるほど御事柄を大事にして行くということは、こういう素晴らしいことになってくるんだと、ね、いわゆる、その御事柄でも御物でもその時点で、それを有り難く頂いて行くということ、ね、そこんところを有り難く頂いて行くということ。
昨日一昨日、佐田さんところの、お~、共励会、久留米の共励会、石井清さんが、あぁ、何時も出席して、まあ色々、おぉお話を聞いて、えぇ何からでしたか、昨日は石井さんのこういう話を聞いて本当に感動しましたというお届けされた人も、あぁのことなんですけれどね、もうとにかくね、これからとか、過去とかということはない、もう今日只今を有り難く頂いて行く以外にはないです金光様の御信心とはと、話されたと言うのです、もうあの人はそこんところに、確かに誰よりもスキッとしたものを頂いておるようですね、そこからです過去が生きてくる、そこから未来が開けてくる、こりゃもう絶対の物だとしておる、今月今日只今のことで、ね、それが人であれ、物であれ、またそれが事柄であれ、それに御の字を頂く、付けるということは有り難く受けるということなんだ、ね、そりゃ難しいこともある、ね、受けることは苦しい事もあるけれどもです、ね、それを有り難く頂いて行く稽古する以外にはないんだと、そこから過去の一切が生きてくる、そこから未来が開けて、未来に繋がる、開けて行く、これはもう絶対なものだと、確信を持って、それにつづいてる、ただ(惜しみ楽?)はね、「人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心」とか、「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」といったようなところのですね、ところが清さんの場合には非常に欠けておるということです、ね、ですからいわゆる本当の純粋なものがこない、だからいよいよ、おぉ、信心の最近な夫婦で、あの月次祭だけは必ず参っておりますがね、事によって、そういうとこに気付かせて頂いた、それなら大きゅうなるです、絶対、けども今のところの時点ではです、例えて言うなら極端に言うとね、腹かいちゃ馬鹿らしかという生き方なんです、ね、この、その時点を有り難く頂かなければ、馬鹿らしかと、過去も生きてこないし未来も開けてこない、というような一つの、まあ思い込みを持っておる、ね、腹かいちゃ馬鹿らしか、ね、けれどもそこまででも、まあ大変、大事な、大変なことだと思いますよね、そういう思い方がです、例えば今日70節と71節を例に、もっ、申しましたが、そういうところがスキッと出けてくる、その証拠には、さあ病気をするっちいうとすぐ医者に行く、どこに、何々さんが良う効かっしゃるっちいうとそこにすぐ行く、これは不思議なんですよ、そしてそれをもう本当に平気で人に話すです、そしてその良かった時だけは話すばってん、悪か時は話さんです、あの、お母さんの病気の時なんか、もうとにかくもう金光様(?)、とにかくあの日田向こうのお地蔵さんにまあ参る、ね、熊本のどこどこ、遠い所へ参って、その薬は効くと言うたら、ほらぁもう御神米やらお神酒さんで勝つことなか、この、そりゃこの薬さえ飲むならもう絶対良うなると言うてから、まあ(?)時発表したんです、これはもうちょいと、だからそれもやはりおかげと思いますという頂き方なんです、だからそれもおかげと思いますという頂き方は、ね、いわゆる金光様のおかげで地蔵さんにも参ったと、金光様のおかげでそこで聞かせて頂いた話、こんな薬があるからというて効いたのだから、やっぱこれも神様のおかげというて頂くわけだ、だからそういう程度の人が沢山あるです金光様のご信者の中に、ね、いわゆる万物を見て道理に合う信心がもう崩れてしもうとるです、ね、(?)ものなことに、も迷います、ねそういうこともなら金光様のおかげでとこういうから、まあその言うておりますけれども、ただ(?)そこんところがですね、ここで本当の純粋な稽古を、をしないから、まだ分かってないなと思うのです、そりゃ本当に薬のあの、薬の場合なんかでもですね、あの、本当これでも(?)っちいうぐらいやっぱ、おこったそうですよね、ところが明くる月、月の時にはもうそれはおかげ話としてではなくて、それがおかげを落とす元にもなったということですけん、そこんとこ話さんです、これは商売人でも、一見儲からないようなことでもです、おそらくそういうところが沢山あるだろうと思う、でなかったらまあちっと儲けらにゃんです、言うなら、お話のようにどんどん、あの、いわゆるおかげ頂くなら、ね、だからいわゆる本当に大きくなっ、私が今日言う、本当におかっ、これならば、この生き方で行くならば、この人おかげ頂くなをっ、限りなく大きくなって行くな、いよいよ未来は開けて行くばっかりだなというようなですね、見通しがつくというような信心を、一つ身につけて頂きたい、そういうね、70節71節、72節を申しましたがです、信心のいわゆる稽古の基本としてまず、自分の信心がどのくらい、スキッとしておるかということを、まずスキッとしたものにして、そして信心の稽古をさしてもらい、信心の稽古というのは、もう、まあここで見る限り、もう必ず有り難くなる稽古なんだ、ね、有り難くなることのために、そんなら、有り難くなることのためならば、どういう事も厭わない、ね、有り難くなるということのためならば、どういう信心でもさしてもらおうと、という取り組みである、それをとりわけ、ね、成り行きを大事にする、御事柄と、として受けて行くということがです、有り難いという、答えが出てくる、ね、そしてなら教祖様の言葉を借りるなら、今月今日只今を、それを有り難く受けて行くと言うか、有り難く受けるということ、以外にはないのだ金光様の御信心は、そこから、過去の一切が生きてくる、過去にああいう事があったから、と言ったようなことじゃなくてね、そのああいう事と思うておったことまでが生き生きとして生きてくる、ああいう事のおかげでということになってくる、これは素晴らしい事です、今月今日只今を有り難く受けるということは、それに過去の一切が生きてくる、ね、しかもそれがね、未来に繋がる、未来にひらっ、ひらっ、開けてくるおかげに繋がるのである、今日を有り難く頂いて行くと、その有り難いく頂いて行くというその焦点をです、ね、なんなんの薬ではいけないのであり、なんなんのお地蔵様ではいけないのである、そういうものが、ね、混ざり気がある時にです、ね、いわゆる本当に大きくなるという、ことにはならん、繋がらない、ね、金光教の信心が濁ってくる、金光教一本のようであって一本じゃない、ね、案外多いのです、ね、70節と71っ72節が出けていないのが、これは金光教の信心の、信心の稽古さしてもらう姿勢なんだ、基本なんだ、だからその基本が出来るところまででもです、なら稽古を、を、が必要なんですから、自分達の信心を、もう一遍考えてみてです、ね、そういうところがスキッと出けていっておるのかどうか、またそこに、えぇそうでなかねばらなんと思うて、稽古をしよるか、というところを、見極めさして頂いて、ね、しかも信心の稽古と言や、何時参って来ても何時参って来ても、親先生が言われるところは、「本心の玉を磨くものだ」「日々の改まりが第一だ」「成り行きを大事にせよ」「御事柄として受けて行け」もうこれ以外にはないのだと、けれども私の言うその中にはです、響きと言うか、音色と言うか、それはいつも、日々やはり上達して行っておるところを皆さんに聞いて頂いておるだけのこと、同じことだけに間違いない、だから頂きようが悪いと、「まあ親先生が言いなさることは分かっとるけん」と言うて、なら御理解も頂いて帰らんという人達もあるわけなんです、ね、そこに一分一厘づつでも、信心が上達していきよるところをです、聞いて頂きたい、ね、昨日の音色よりも今日の、音色の方がさえておる、というようにです、ね、やはり信心の稽古と言や、やはり信心の稽古です、他の事の稽古じゃないのだから、それをなら焦点としては、もう有り難くならして頂く稽古以外にないと、して、信心の稽古をお互いしておるわけであります、ね、その基本になるところをです、今日は、ね、70節と72節、いわゆる71節の、前後の御理解を、をぉ通してね、分からして頂いた、この御理解で間違えてならないことは、えぇ、はぁ金光様の御信心も楽だなぁと、えぇ、日傭取りやら、ね、病気やらある時には、まあ参らんで良かろうと書いちゃる、ね、そりゃそうである、ね、けれども常日頃、元気な時にそん代わり参ってこいと書いちゃる、な~んでもない、お願いもせんでも頼むこともなかっち言うごたる時に本気で信心の稽古をしておけ、それの方がだいたい言うたら本当であり、多いわけです私共ん時では、ね、ところが病人が出けたり、えぇその、いそっ、ちぃったばっかり忙しゅうなってこなければ、信心を、をぉしないというような人すらあるくらいですからね、だからこれはやっぱり、ね、常日頃の信心の稽古をしっかり、さっしっ、さし、て頂くのだと、まめな時ここへ参って信心の稽古をしておかなければならん。 信心の稽古をさして頂くということは、ね、決して変わったことではない、これは私が何時口を開いても同じようなことばっかりでございますけれども、それをやはり繰り返し繰り返し、ね、稽古さして頂くところに、上達、言うならば楽器で言うなら、いよいよ自分にも聞きとれるような、良い音色が段々出てくることを楽しみに信心さしてもらう、同時に稽古をさして頂いておる内にです、祈りの内容が、願いの内容が変わってくる、次第に大きくなってくる、実感としてそれが、祈れれるようになってくる、それがもうたまらない有り難い、ですね、私が、ね、世界の隅々の人達の上にまで、ね、和賀心の、言わば、あ~、運動と言うか、ね、に、思いを、かけさして頂くということ、それこそ、世界中の氏子の精霊達のことまで、願わねばおられなくなったというこは、もう私にとってもうこんなに有り難いこと、どうしてこういう事が実感として祈れれるようになっただろうかと思うくらい、何時の間にか稽古しておく、行く内に、段々大きな祈りが、しかも段々これから、その中に実が詰まって、もっともっと本当なものになってくる、ことでありましょう、ね、皆さんの祈りもです、いよいよ、ね、自分の事から、例えて言うならば、なら御造営なら御造営ということに、本気でそのための一修行さしてもらおうといったような信心が出けてくるとです、その事が実に有り難くなるです、いわゆる有り難くならして頂くやはり稽古には、信心も育って行く、大きくなって行かなければならんことが分かります。
どうぞ。
入力者:誠輝